チェット・ベイカー再考

   私のアイドルともいえるジャズ・トランペッターを10人挙げるならば、マイルス・デイヴィスチェット・ベイカー 、トム・ハレル、リー・モーガンクリフォード・ブラウン、パオロ・フレス、エンリコ・ラヴァ、市原ひかり、フレディー・ハバード、ウディ・ショウの10人になりますが、3人、になると、マイルス、チェット、トムの3人になります。 

 

 チェット・ベイカーの魅力は、何と言ってもトランペットの上手さでしょう。たまに、「チェットのトランペットは下手だよ」と言われる方がおられますが、例えば、初期の代表作の「チェット・ベイカー・シングス」を聴いてみてください。「But not for me」のアドリブを聴いてみてください。テーマのメロディー以上にメロディックなラインを紡ぎ、楽曲の構造をくっきりと浮かび上がらせる非常に精巧なフレーズを即興で奏でています。きっと「下手だ」と感じられる方は、音色がブリリアントではなく、ちょっとくぐもったように聞こえるから、下手という印象を受けてしまうのでしょう。ただ、それは好みの問題であって、テクニカルな「上手い」「下手」とは別次元の話だと思います。このあたりはマイルス・デイヴィスの評価とも共通する誤解があります。まず、基本的にテクニシャンでかつ、アドリブによるメロディー・メイカーだった事実を踏まえておく必要があります。

 しかしながら、私が1950年代の若かりし頃のチェットが好きだったかというと、「好きだけど熱狂的に好きではなかった」と言わざるを得ません。アルバムごとのクオリティーはどれも高く、素晴らしいとは思いますが、あと一押し、足りないような、そんな印象も受けていました。ところが・・・1959年録音のriversideのアルバムに「プレイズ・ラーナー&ロウ」という作品があります。ミュージカルの最高峰ともいえる「マイ・フェア・レディー」の音楽を担当したアラン・ラーナーとフレディリック・ロウのコンビの曲を採り上げたアルバムで、これがすごくいいんですよね。チェットの作品の中ではそれほど注目されている訳ではないのですが、冒頭、「マイ・フェア・レディ」の名曲で、スローテンポの「I've grown accustomed to her face」で始まる点がまずもって意表を突きます。チェットはこのアドリブで、中低音を生かした非常にメロディアスなフレーズを奏でています。実音で下線のF♯の音域まで使って、美しいフレーズを紡いでいます。中~高音域でフレーズを組み立てるのが主流だった当時のジャズシーンで、下線B♭以下の音をごく自然に使う構成は斬新に耳に響きます。

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 後年、麻薬の代金が払えず、その肩に歯を折られて以降、ハイ音域がきつくなり、中低音を生かしたアドリブを展開するようになったチェットのセンスを、1959年の時点でかいま見ることができます。何といえばいいんでしょうか。コード進行に対して横の旋律を即興で生み出す能力に長けた人だとつくづく思います。

 チェットは当時の多くのジャズマンがそうであったように麻薬中毒だったそうです。で、40歳の時に麻薬を購入した代金が払えず、歯を無理矢理折られたと。その後4年間、入れ歯がフィットするまでは全然吹けなかったそうです。いや、前歯を折られたらトランペットは吹けないでしょう。本人が出演した伝記映画「レッツ・ゲット・ロスト」の中で、吹けない時期は「ガソリンスタンドでバイトしてた」と告白しています。15年前は、アメリカ西海岸でジャズ界のヒーローだった人がですよ。ガソリンをついでもらったのがチェットだったらそれは誰だって驚きますよ・・。ただ、その言葉に続く「必ず吹けるようになることは分かっていた」との台詞が非常に印象的でした。いちおうトランペッターの端くれとして、歯を折られてもそう断言できる精神に率直に感動しました。

 チェットのことがそれほど眼中になかったある日のことです。たまたまレコード店で1978年録音の「Live at Nick's」(Criss cross)を見つけて驚きました。何に驚いたかというと、ジャケットいっぱいに大写しになったチェットのトランペットを吹く表情に驚きました。「何これ、何でこんなに老けたのか」。そうなんです。気持ち薄くなった髪ととにかく皺だらけの顔。老人のようなチェットがトランペットを吹いているのです。けれど、78年だからまだ47歳(!)のはずです。どう見ても60代。いや、下手すると70代でも不思議ではありません。一体、どうなっているのか。

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 いたたまれずにレコードを買って、聴いてみました。内容は、老化した風貌からは想像ができないような生気に満ちあふれたものでした。1曲目、アーヴィング・バーリンの「The best things for you」を急速テンポで演奏していて、この最初の音で私のハートは射抜かれました。一瞬「フリューゲルホーン?」と錯覚する柔らかな音色。コード進行にぴったりと寄り添った端正なフレーズとハードにドライブするスウィング感。「え、これチェットなの」と思わずにはいられませんでした。こんな柔らかいトランペットの音を聴いたのは初めてです。完全に一目惚れした私は、以降、チェットの晩年のアルバムを中心に、レコードとCDを買い続け、150枚ぐらいまで集めました。

 歯を折られて復活してからというもの、チェットは確実に上手くなっているのです。本人曰く「若い頃より遥かに上手く吹ける」というのは正しいと思います。歯の状態がよろしくないとはいえ、それが逆に奏功し、まるでフルートを思わせるような木管的なサブトーンを生み出しています。もう一つの魅力は、音域の上限がほぼ2線上の実音B♭程度までに限定されたことにより、下線B♭以下の低音域をも常用音域として組み込んだフレーズの面白さです。コードチェンジに這うようなフレーズラインには天才的な閃きが随所に感じられます。ハイノートがない代わりに32分音符で吹き抜ける疾走感が新たな魅力として加わりました。32分はタンギングを入れず、スラーで吹ききる点も面白いと思います。音も、若い頃よりもより倍音成分の多い、よりファットな響きに聞こえます。歳を取って枯れていくミュージシャンは多いのですが、チェットは枯れつつもよりアグレッシブで冒険的なタイプに変貌していったように思います。

 ただし、晩年の作品はライヴをそのまま収録したチープな音質のアルバムも多く、チェット自身の出来、不出来も波が激しかったことも紛れもない事実です。購入した150枚の中には絶句するぐらい不調なプレイもありました。でも多くのプレイからは、即興演奏家として実際にバックのコードの変化に対応しながらその場その場でフレーズを紡いでいる音感の良さ、才能を十分に感じることができます。もっとも、チェットの魅力はテクニカルな部分もさることながら、ジャズを演奏することしかできなかった「偏った」生き方をせざるを得なかったことが最大の魅力でしょう。偏りは自ずと音に表れます。いわゆる「説得力」というものです。資質とか、そういった類のものです。

 チェットのソフトで女性的な歌声はボサノヴァの歌い方にも大きな影響を及ぼしたそうです。ボサノバのイノベーター、ジョアン・ジルベルトは元奥さんのアストラッド・ジルベルトを口説く際に「君と僕とチェット・ベイカーで『There will never be another you』を延々に歌い続ける想像上のヴォーカル・トリオを結成しよう」と言ったそうです。いい話ですね。

 ちなみに、ピエール瀧のコカイン騒動ですが・・違法行為は違法なので法の裁きを受けるのは当然として、彼が関わったすべての作品をなき物のようにするのはどうなんでしょうか。彼の行為と作品の価値はまったく関係ないのであって、これが例えば性犯罪であるとか、殺人とか、現に被害者が存在していて、被疑者の痕跡が被害者に精神的な負担を与える可能性があるのであれば、作品を封印することも仕方がないかなと思いますが、ピエール瀧氏の場合は、本人がコカインを使用したしたという話でしょう。そんなこと言ったら昔のジャズマンは多くが麻薬中毒患者だった訳ですし、チェットなどその代表格だったのですから、それをいちいち廃盤にしても意味がないというか、滑稽な話だと思うのですけどね。 

 チェットは若い頃は溌剌としていました(笑)

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しかし、麻薬を常習した結果、50ちょっと過ぎにもかかわらず、風貌がこう変化しました。

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 どひょーん。

でも、いいんですよ、生み出すものは逆に輝きを増した創造的なものですから。こうした人はこう生きるしかほかに選択肢はないのですから。

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