米子Jazz喫茶群像

 米子市にかつて数軒のJazz喫茶があったのをご存知でしょうか?私は小学校6年生の時から通い薫陶を受けました。

  1970年代後半・・まだ戦後の趣を隅々に残す米子市朝日町。入り組んだ小路を分け入ると、その店がありました。扉を開けて横の階段を上がった2階がJazz喫茶部門の「リスニング・ルーム」になっています。木製の扉を開けると、輸入レコード盤の香りと紙ジャケットの退化した香りが渾然一体となって、つんと鼻腔をくすぐります。日曜日などに朝イチでいくと、決して広いとはいえない空間には仄かに夜の余韻が残っていました。日曜日などはしばしばファーストビジターだった私は、まずカーテンを開け放ち、すると斜めに差し込んだ朝日に塵がぼうっと舞い、それが何とも言えず退廃的な雰囲気を醸し出していました。

 いつもの甘ったるいカフェ・オレを1階で注文し、誰もいない2階に上がると、棚にびっしり収まったLPレコードを物色する。これぞという1枚を自分でターンテーブルに乗せ、JBLアルテックバレンシア)のスピーカーで聴くのです。小学校6年生の頃、私は日曜日の午前9時に「いなだ」に来て、夕方5時頃まで、ひたすらレコードを聴いていました。ここまで書いて「あれ?」と違和感を持たれた方もいるのではないでしょうか。そう、Jazz喫茶「いなだ」は全国でも例がない、セルフサービスのJazz喫茶だったのです。マスターは1階の、カレーが美味しい普通の喫茶店を営業されていて、2階のJazz喫茶部門は、客が自由に好きなレコードをかけて楽しむセルフサービスJazz喫茶でした。今考えると信じられないことです。棚には、いわゆる「オリジナル盤」もあった訳ですから。それを自由にかけて自由に聴いてなどと太っ腹な了見のマスターは後にも先にも、「いなだ」のマスターだけでしょう。既に亡くなられましたが「いらっしゃい」と小学生の私を迎えてくれた笑顔は今でもはっきりと覚えています。

 場所でいえば、やぐら寿司(今もあるのでしょうか?)の角を曲がった所です。私はこの店で、Jazzの名盤といわれるアルバムの多くを聴きました。なにしろ、朝から晩まで、ほとんどお客さんはいないのですから、レコードを聴き放題な訳です。カフェオレ1杯、確か400円で8時間ぐらい、ひたすらJazzを聴いていました。平日はテニス部でひたすら「壁打ち」に汗を流しながら、休日は友達と草野球を楽しむ一方で、アナザーサイドの休日はJazz喫茶で1日中、Jazzを聴きまくっていました。今考えると妙な小学生だったのではないでしょうか。

 先ほど、レコードジャケットの匂いと書きましたが、要は「カビ臭い」ということです。ジャケットと中袋は紙製ですので、どうしてもカビてくる。そうすると、いや応なくカビた匂いが漂ってきます。カビ臭い中、甘ったるいカフェオレをすすりながら聴いたおびただしいレコードの中で印象に残っているのは、例えばソニー・ロリンズの名盤「サキソフォン・コロッサス」の、「St. Tomas」ではなくて、「You don't know what love is」でした。無骨ともいえるトーンと吹き振りで、ごりごりとメロディーを紡ぎ、アドリブを展開するロリンズ。カビた空間のやさぐれた雰囲気と妙にマッチしていました。アート・ファーマーの「Early Art」のハーレム・ノクターン。これも印象的でした。Prestigeレーベル独特の乾いた音質をJBLとかバレンシアで聴くと、すごく臨場感があり、晴れた休日にこんな孤高のサウンドを聴いている不条理感をさらに高める効果がありました。マイルスの「ing」シリーズもよく聴きました。私はほかに何することもなく、ひたすらどっぷりと傾聴していましたので、「いなだ」で聴いたジャズは身体に染み入るように体感していたのだと思います。

 以来、大学生のころまで、「いなだ」には通いました。高校生になると、本を読みながらJazzを聴くようになりました。当時は海外文学にはまってまして、「風とともに去りぬ」ですとか「ジェーン・エア」、ドストエフスキーやディッケンズの長編とかを読みながらJazzを楽しんでいました。なんか自分の部屋みたいな感じでしたね。そのころになると部活もやってませんでしたから、放課後はひたすらJazzと読書、好きな英語の勉強に明け暮れていました。それらができれば後はOK。No problemみたいな・・・

 「いなだ」以外にも米子駅前に「ジャズマイン(Jazzman?)」というJazz喫茶もありました。この店のJBLのスピーカーが設置してあったと思います。ほかに、80年代になってからだと思いますが、駅前通りの東町に「ファーブル」という店もオープンしました。若いご夫婦が経営されていた店で、私はここのオープンな感じもすごく好きでした。印象的だったのは、当時、東京新宿のJazz喫茶の草分けだった「Dig」の店主、中平穂積さんがアメリカでニューポート・ジャズフェスティバルを撮影した8ミリ映像を上映する企画のイベントが開催されました。実際に中平さんを招いての上映会でした。前半に映画「真夏の夜のジャズ」を上演して、後半は中平さんの秘蔵映像を上演する趣向だったように記憶しています。秘蔵映像にはジョン・コルトレーンが熱演する様子がカラーで再現されていました。映像と音に著しいタイムラグがあったのですが、なにせ当時は動くコルトレーンの存在自体が奇跡的で、8ミリの「ジ、ジ、ジ」という音とともに観た人誰もが食い入るように映像に見入っていました。満員の来場者の中には「いなだ」のマスターの姿もありました。現在なら動くコルトレーンの姿など「youtube」でいくらでも観ることは可能ですが、当時は非常に珍しかったのです。それこそ、中平さんが実際にニューポートジャズ祭の現場に行かれて撮影されたからこそ、上映することができたのです。「ファーブル」に集まった観客は、まるでテレビ黎明期のプロレス中継を街角の電気店で観るような感じで映像に釘付けになっていました。「Youtube」が普及した現在とは隔世の感があります。

 懐かしいといえば、ホテル「わこう」に大西順子さんのカルテットが来てライブをしたことなど。フロントはまだデビューしたての川嶋哲朗さんでした。ドラムスは原大力さん、ベースの方がちょっと思い出せないのですが、ディジー・ガレスピーの「Tin tin dio」の演奏がとても印象的でした。大西さんのピアノの鍵盤を指が滑るようなフレーズとか、独特のタイトなリズム感の演奏をよく覚えています。わこうには、ジャズの巨匠、チャーリー・パーカーのサヴォイセッションにも参加したピアニスト、サディク・ハキムのトリオも訪れていました。

 Jazz喫茶は、ベトナム戦争カウンターカルチャーであるヒッピー文化が日本国内にも普及する中、反体制の象徴としてのJazzを前面に押し出した飲食店として日本国内にも一時、全国規模で普及しました。しかし、反体制運動の終結とともに、Jazz喫茶文化は衰退。1990年前後に徐々に店の灯りが消えていきました。

 たまたま東日本大震災、東電力福島第1原発の取材で福島県を訪れた際に、氷点下の気温で凍てついた福島市を深夜さまよい、老舗Jazzバー「ミンガス」にたどり着きました。すべてが寝静まった街に見つけた1軒のJazzバー。中に入ると、マスター―は温かく迎えてくださって米子市出身のジャズ・ピアニスト、松本茜さんも何度かライブをされたことがあるとの話を聞いて、ジャズ談義に花が咲きました。ジャズ喫茶文化の全盛時代は既に過去のものとなりましたが、やはり全国各地にジャズの拠点があって、訪れるとほっとできるのはいいですね。私は県外に出ると、必ず地元のジャズバーを訪れることにしています。そこで地元のさまざまな情報が入手できるということもありますし、何よりも自分の最も寛げる空間はジャズが流れていて、そこには常にジャズ好きが集っているからです。国内外を問わず、ジャズは人と人とをいとも簡単につないでくれます。