もうすぐ3・11です

 3・11。そう、東日本大震災が発生し、地震による津波東京電力福島第1発電所事故という未曾有の原発事故を引き起こしました。このところ3年連続でこの時期、福島県を訪れていたのですが、今年は叶わず、何か忘れ物をしたような、心に刺さった棘が取れないような複雑な思いを抱いています。

  原発事故以降、最初に福島県に行ったのは事故から5年後の2016年でした。まだ飯舘村浪江町全域が帰還困難区域に指定されていた頃です。事故から5年がたっていただけに、原発周辺の地域は5年間放置されたままの無残な姿をさらしていました。印象的だったのは、津波の被害に遭った地域はほぼ更地になっていましたが、原発事故で住民が避難した地域は、建物などは2011年3月11日の同じように、ずっとそこにあるという厳然たる事実でした。想像してみてください。自分の住んでいる場所から着の身着のまま逃げて、そこに二度と再び戻れないような事態を。建物は5年間、主を迎えることなく、まさに放置された痕跡をとどめていました。街はあるけど人けはない。

 飯舘村浪江町を回って、福島県東部を南北に貫く国道6号を走っているときに、昂ぶる感情を抑えることができませんでした。当時、国道6号の大熊町双葉町など原発に近い箇所は交差点がことごとくバリケードで封鎖されていて、通り過ぎるしかない道路でした。道路沿いのガソリンスタンド、飲食店、その他の店舗・・ことごとく廃墟と化し、無残な姿をさらしていました。行けども行けども、両脇を次々と廃墟が通り過ぎていく。私は車のハンドルを握りながら涙が溢れるのを抑えきれませんでした。この世の地獄とはこのことでしょう。

 それ以来、3年続けて福島県に通っていました。何故でしょうか。原発事故の現場には、現代社会の矛盾が極めて鮮明に映し出されていたからです。都市と地方の格差、持つと持たざるの違い・・飴と鞭によって国策を呑んできた歴史が克明に刻まれているのです。知人が「原発事故は2度目の敗戦」と言っていました。いささか不謹慎ではありますが、原発が国家プロジェクトという点では、的を射た表現だと思います。ずいぶん前に、作家の赤瀬川源平さんが岡本太郎のパロディで「原発は爆発だ(芸術は爆発だ)」と宣言して笑いを誘っていました。当時はそれがリアルになるとは夢にも思っていませんでした。先の国道6号は朝夕の通勤時間帯には、大渋滞になりました。除染作業員を乗せた車両でいっぱいになるのです。ディストピアそのものに感じました。

 福島原発事故は、土地の汚染のみならず、住民を分断しました。「道路を挟んだ向こうの家とこっちの家で補償金数千万円をもらえたりもらえなかったりする」、「内部被爆の影響のある、ないで家族が分断される」など、人心を翻弄する性質があるのです。被爆の影響がどうだという前に考えてもらいたいのは、原発が決して都会など人口集積地に建設されなかった事実です。それほど、事故時のリスクが大きいということです。 福島第1原発周辺に住んでいる人に被爆を恐れるなという方が酷ではないでしょうか。しかし、家族内では、現地に残らざるを得ない夫と、子どもの被爆を心配する妻がやがて対立し、分断されるケースも数多く存在しています。実際にどれだけの被爆量でどんな影響が人体に及ぶかは、現時点で確定的なことは分からないと思います。

 福島県の惨状を目の当たりにすると、原発の再稼働などとても認めることはできません。認めることができない理由は、第一に「核のごみ」を処理できない点です。最終処分場の選定は遅々として進まず、当然のことですが、自分の住んでいる地域を核のごみの最終処分場にしてもいいと言える人など、まずいないでしょう。行き場のないごみは結局、原発敷地内の貯蔵プールに一時保管されることになります。これとて、万一地震とかでプールの水がなくなった場合、使用済み核燃料はほどなく臨界に達し、大惨事を招きます。原発を認めることができない第二の理由は、日本が地震大国である点です。ご存じの通り、活断層は現状では知られていないものが数多く存在します。地震予知ができないゆえんです。第三に、百歩譲って経済効率の観点からも、高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉で「核燃料サイクル」が破綻し、そもそも原発アイデンティティ自体が崩壊しました。国や電力会社はよく原発は安価な電力と言いますが、福島第1原発事故の補償も結局は税金で賄われていますし、原発の立地自治体に対しては、国から多額な交付金が支払われています。もちろん原資は税金です。

 それでも原発が必要とする方々のよりどころは「日本は島国でエネルギーを自給できない」という論理です。「安全保障上の問題」と言い換える人もいます。しかし、そもそも、日本は何を自給自足で賄えますか?電力に限らず、あらゆる資源、食料さえも自給自足で賄うことは無理でしょう。そこを電力だけに矮小化して議論するのは、いかにも恣意的であり、とても説得力があるとは思えません。原発ありきの魂胆が透けて見えます。私は根拠もなく原発に反対しているわけではありません。あらゆる観点から、次世代にとって有効ではない政策に思えるからです。

 さらに、「故郷に住めなくなる」ことが何を意味するのか。それは、日本国憲法が保証する「居住移転の自由」を損なうことを意味しているのです。あってはならないことだと思います。せめて今年の3・11は、そうしたことに思いを馳せられたらと考えています。

 ちなみに昨年訪れた時は浪江町の国道114号の通行止めが6年半ぶりに解除されていましたが、途中、ところどころに設置されている線量計の数値は、山林の迫った空地などでは依然として高い数値を示していました。

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